はじめまして!
在宅ワークをはじめた のりりんです
ブログをご覧いただきありがとうございます。
自由になりたい
家族との時間をとりながら 収入をえらる方法がないのかと考えていたときに
出会ったのが 在宅ワークでした
すぐに思ったのがこの目標
1年後に月収30万 2年後には月収50万稼ぐ
50歳を過ぎたパート主婦が これを実現できたら すごくないですか?
2年後 結婚30周年をハワイで迎えることも夢ではない
ずっと行ってみたかった ハワイでホノルルマラソンにも参加できる
借り入れだって60歳までに終わらせて
老後だっって 余裕じゃん
人生の折り返し地点に立った私の奮闘をぜひみて応援してほしいです
まずは私の自己紹介から!
自己紹介
名前:のりりん 53歳
家族:夫 息子2人 長男は結婚して 孫一人
趣味:旅行
好きな色:オレンジ
好きなもの:赤福、チョコ
働き者の両親の 第2子として生まれました
父は地元では優良企業 母は公務員 がちの共稼ぎ家庭で 定年まで勤め上げた両親
大人になった今では 両親が働いてくれていたことがよかったと思えますが
子供の頃は 理解できず 心が疲弊し 殻に閉じこもっていきました
なが〜~い 反抗期
なぜか記憶に残ることは イヤだったことが多い きっと楽しいこともいっぱいあっただろうに と思いますが・・・
あれしなさい これしなさい よく怒られていた
小学校 高学年になったころ ランドセルに教科書 紙袋に着替えをつめて
祖父母のところへ 家出してみたり
地元でも有名なお祭りに行ったとき 何が気に入らなかったのか
怒って 家までひとりで 3キロの道のりを歩いて先に帰ったり
中学生になったころは
群れるのが嫌いで 何で 女なんだろうと思ってみたり
2階から外を眺めては 落ちたらどうなるんだろう
死んだらどうなるのかぁ とか 考えたり
親に対して 話しても一緒 どうせわかってくれない
こんな感じだったので 親とのコミュニケーションも一切たってました
高校進学も
大学進学も
自分の意志というものはなく
親の理想の未来を 嫌だと思いながらも 他に目指すものもなく
親のレールにのっている道のりでした。それは結局反発しながらも楽だったんですよね
それは就職するころまで続きました
そんな私も 25歳の時に結婚
さすがに結婚相手は 自分で探して決めました
しかし
長年自分の気持を出すことに蓋をしてきた私は 本音の部分を言えない
気持を伝えることが苦手 喧嘩にならないけど 雰囲気が悪くなる
結婚しても 自分の都合が悪いと黙り込む
そんな私で
子育てに対しても とても不安でした
私には二人の息子がいます 感情のままに 厳しく育った私でしたので
長男が2歳を過ぎたころから 子供のわがままに 対話ではなく
手を上げるようになっていました
そんな自分が嫌だと思ってたのと
次男の出産予定日が近づくにつれ 二人の息子を抱えて
仕事と家庭と両立しながら働き続けられるのか・・・
流れにまかせて生きてきた私に 大きな不安が押し寄せてきました
頭をハンマーで殴られる!?
そんなある日
お隣の奥様から 「食育って知ってる? 食の勉強してるんだけど」と
お誘いいただきました。
食に関しては 母が栄養士をしていたこともあり
「知ってるよ」という気持ちもありましたが
仕事に出かける時や帰ってきたとき いつもやさしく声をかけてもらっていたので
勇気をもっておじゃましました
勇気をもって と書かせてもらいましたが
物凄く 知らない人と話すのが苦手であいさつもできない
目も合わせない 子供と一緒に公園に行くのは 誰も遊んでいない時
というほどだったので
悩みましたが 勇気をもってお邪魔したのです
そこで 私は 頭をガツンとハンマーで 殴られたかのような
気づきがありました。
食べたもので身体がつくられて性格も変わる⁇
私の性格も 子供の体調も!?
世の中には 私の知らない事 知らない世界がある
そこから 子供のために自分が変わらなければと想うようになり
知識を入れるようになりました。
そんなに勉強もしていなかったので知らない事ばかりなのに
何とか生きていけていたので分かってるつもりだったのです
次男は 食物アレルギーを発症
ケアが必要となったこともあり
産休明け仕事に復帰をしましたが
働くことはいつでもできる
子供との時間は取り戻せない との想いから
約8年務めた会社を退職しました
子供のころから 母が仕事をしている家庭で育ったので女性も働くことは当然のことで
仕事は普通にするものだと思っていました
小さい会社でしたので 育休制度も作ってもらい長男も次男も
子供が熱を出しても 毎月休んでも人に和恵まれていて休みも取っていました
きっと この出会いがなければ なんの変りもなく 自分の意思もなく
人の目を気にして 自分の軸をもたずに
始めて自分で決断して 道を歩き始めた気がします
おかげさまで 仕事という環境ではなく 社会という環境の中で
経験を積むことで 自信もつき
学校の役員 子供会 町内会 さまざまな活動を通して
子育てと一緒に 自分自身も成長させてもらいました
自分の意志をもって 生きることができるようになって
すごく生きやすくなったのはこの時から
このころに 在宅ワークという働き方があればよかったのですが・・・
転職はそんなに甘くない
40歳を前にして
夫が 新卒から働いていた会社を辞めたいといい始めました
私もいろんなことを経験するのはいいことだと思っていたので
前向き受け止めてました
大型トラックの免許をとり
運送会社で働くことになりました
ここでも なんとかなるさと と思ってましたが
さすがに 給料半分になり ボーナスもほぼなしの現実は厳しかった
このままでは これから高校進学を控えているのに 厳しい状況だと思ったところで
元同僚が 年俸制で前の会社並みの職場への誘いをしてくれました。
やったー! これで安心と思いったのですが
夫には その職種があっておらず 気づけば 義母の介護を理由に
辞めてました。さすがにその時は せっかく収入が安定したと思っていたのにとの気持ちで
戻ることを言い寄った時
仕事をしないと言ってない 死ぬよりましだろ‼ と 優しい夫が 強い口調で言ったのです
親の介護と家族との関係
息子が大学進学が決まり家を出ることになったので
私は夫と次男の住む 千葉県へ 行くことにしました
生まれて初めて 地元を離れての生活にわくわくしながら
仕事も見つけ 休みも取りやすかったので 年に数回
親の顔を見に行く 息子が大学生になってからは Wワークをはじめ
収入も安定したところ
コロナが蔓延して行動制限が出始めたころ
父も体調が思わしくなく
母からの電話で 頻繫に転ぶようになり ときには救急車で運ばれたしたりとか
多くなってきました
次男も一人暮らし始めたし
長男が大学卒業 引越し
母一人で父を見るのは大変そう
夫は元々単身で上京したのだからひとりで大丈夫よね
大好きだった祖母の3回忌もあるし
と 自分に言い聞かせ
4年ぶりに 地元へ戻りました
待っていたのは 弱りはてた父と すこぶる元気な母
夫婦って一緒に衰えていった方がいいなぁと
感じながらも
母が元気だったので 日常はお任せして
病院の送迎
転ぶと母一人では起こせないので 呼ばれてかけつけたり
ご近所さんに助けてもらったりもしながら
1年がたったころ 足の指先の怪我から壊死が始まり
検査の結果 太ももからの切断
ひざ下がの太い血管が石灰化してほとんど血が流れていないとの事
まだ 自力で歩行をしていたので その話に
とてもショックでした
この状態で 太ももから切断
肩から腕がしびれている状態で 益々動けなる
どちらにしても 負担は大きい
治る見込みが低い選択
半年過ぎたころ感染症で亡くなりました
入院する直前まで 自宅からデイサービスに通い
あっという間でした
でも
自由と収入をえるために